◇アクセルとブレーキとニュートラルの使い分け。
人は注意して育つだろうか。
それとも、誉めて育つものであろうか。「両方だ」と言う人がいることだろう。
アクセルとブレーキの双方が大事なことは言うまでもない。
しかし、ブレーキは成長させるというよりも、増長させてはいけないマイナス面を強調するためのものであろう。
しかも注意はムズカシイ。ヘソを曲げられることもある。まして、急激なブレーキは摩擦も大きい。
育てもしないで、ミスをいちいち注意するようでは、相手は心を閉ざしてしまう。
愛のムチというが、愛情あっての注意である。愛情なき注意なら、最初からしない方が良い。
余程の悪いことでないなら、模範を示しながら忍耐強く教えることを優先することだ。その方が100倍勝る。
植物が太陽に向かって伸びるように、人は希望や夢に向かって成長する。
大事なことは、気付かせること。
「こうすればうまく行く」ことへの確信を与えることだ。
「あれもダメ、これもダメ」では、「じゃあ、どうすればいいんだよ!」と爆発することだろう。
一方、相手に気付かせることなく運ぶこともある。
アクセルでもなくブレーキでもない。例えるなら、ニュートラルであろうか。
20年?ほど前に聞いた話を例に出したい。
(以下は、私の記憶に残っているイメージです)
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役所でお婆さんが印鑑を忘れた。
女性の窓口担当者が「拇印(ぼいん)でいいですよ」と言うと、お婆さんは「拇印も持っていない」と困惑した顔をした。
担当者は、笑みを保ちながら「そうですか、では指でいいですよ」とやさしく言い、書類に拇印を押させた‥。
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私は、この話をどこで聞いたのか覚えていない。
四国の学会員の話だったと記憶しているが、思い出せない。
ただ、この思いやりの言動にハッとさせられた。
「拇印というのは指に朱肉を付けて押すことですよ」と言う人もいるだろう。場合によっては、「お婆さん、拇印の意味知らないの?」と薄ら笑いを浮かべる人がいるかもしれない。
けれど、彼女は違った。気配りで、恥をかかせなかった。
このように状況に応じて言うこともあるし、言わないこともある。
「そっとしてあげる」ことも大事な気配りである。
さて、昨今、スポーツ界で「暴力問題」が噴出しているが、これは極めて前近代的な方法だと言わざるを得ない。
「言っても分からないならゲンコツだ!」
「厳しくした分、強くなるのだ!」
これは現代の運び方としては、受け入れがたいものである。
創価学会が、罰論から功徳論に変わったように、今の世は、注意よりもむしろ、メリットを強調すべきである。
注意も、年齢や立場などを理解した上で、丁寧に行うことだ。皆の前で吊し上げるような注意は、よほどの信頼関係がないとやるべきではない。
悪いことがあったら、単に注意するのではなく、「どうすれば気付くのだろう」と一歩深く考えて行動することが大事ではないだろうか。
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