☆研究部門のトップに昇進する。
頑張れば頑張った分、仕事はクオリティーを向上させました。
周囲は喜んでくれましたから、そのことが嬉しくてさらに頑張りました。。
あの愚鈍な、妻にも捨てられるような人間の人生が、全くカタチを変えたのです。
私は一心不乱に仕事をし、すっかり信心をしなくなりました。
しかし、私の心の中には、池田先生のご指導が小さいながらも蓄積されていましたので、10年以上の長きに渡って仕事は順調でした。
○社長賞.
会社の規模は、驚くほどのスピードで大きくなりました。
研究に対する予算も多く、商品開発は順調に運ぶことができるのです。
私が手掛けた商品が業界において大きなインパクトとなり、飛躍的に大きな売り上げをもたらすようになりました。
皆が、私を慕ってくれましたし、笑顔が絶えない職場になりました。
社員旅行の時、社長が社員全員に話をしていたとき、突如、私の名前が呼ばれました。壇上に行くと、その場で社長賞の賞状と景品が授与されました。
「※※の功績により、社長賞を授与します」と言われました。
そして、壇上から挨拶をすることになりました。
私だけの力でその商品開発が成功したのではありませんし、かなり困惑しつつ、何かを話しました。話した内容は、まったく覚えていません。
○アメリカへ.
会社の規模はさらに大きくなり、海外に拠点を持つまでになりました。
私はアメリカにまで赴任して仕事をするようになりました。
現地メンバーがある困難な仕事に直面し、その解決に渡米しました。
私の渡米は二度にわたり、その当時の出来事としては「ロス暴動」がありました。
ロサンゼルスで暴動が発生したのです。
このとき私は、その暴動に巻き込まれそうになりました。そのとき、現地の見知らぬアメリカ人に助けられ命拾いしたのです。
当事は日本人特有の「平和ボケ」の「甘ちゃん」人間でした。本当に危ない経験をし、日本の常識で世界を受け止めてはいけないと学びました。
ともかく、まさか、アメリカで仕事をするようになるとは想像もしませんでした。
次第に、私自身が途方もない立場になってしまうのです。
○重き荷を背負う.
こうして、私の仕事はますます忙しくなりました。
困難な仕事が、どんどん来るようになりました。私は来た仕事をしっかりと果たしました。そしてついに、研究部門の責任者になってしまったのです。
それは苦痛が伴う昇進でした。まだ35歳の若造です。それが所員が30名もいるような部門のトップになってしまったのです。
名だたる企業が集まる会場で講演をしたり、大企業のトップとも話し合ったり‥
やがて私は、プレッシャーに苦しむようになりました。
そこまでの仕事をしたかったのではありませんから。
私は「普通」の生活がしたかっただけですから。
学歴は低いものでしたし、何よりもともと「頭が悪い」私が、です。
一心不乱に仕事をし、たしかにスゴイ商品が生まれ、そのことで会社の発展に寄与し評価されたまでは良かったのですが、その評価が実力以上のものになったとき、人は大変な苦しみを背負うのです。
背伸びをして、背伸びをして、でも届かない自分‥
私は仕事に恐怖すら感じるようになりました。
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