☆子供がいない悩みが消える。
窓際族という落とし穴で 私はもがいていました。
万策尽き、その中で「信仰の道」を歩みました。
そして、監禁された部屋の中で、御書の全編拝読に挑戦しました。
ある日、国府(こう)入道夫妻に与えられた二編の御書を読みました。
「信心をしているのに子供がいない」と揶揄されている内容が目に入りました。
私にも子供がいませんでしたから、興味深く読みました。
○境涯の変化.
私は考えました。
「周囲から、信心しているのに子供ができないではないかと悪口を言われていた夫婦か。今と違って、当時は跡目のいない夫婦は辛かっただろうな」
「それにしても、何故、この夫婦は大聖人に赤誠を尽くしたのだろう。否、何故、尽くせたのか。何を望み、何を得て、一生を終えたのだろう」
深海のように静かな部屋の中で、私は、じっとこの御書に目を凝らしました。
と、そのとき、私は一つの答を得たのです。
「大聖人の指導を末法万年に残すために、この夫婦は生まれてきた」
「子供がいないことで悩んでいる夫婦のために、あえてその役回りを演じた」
この鮮烈な直観が、私自身の悩みを一瞬にして吹き飛ばしたのです。
「そうか!だとするなら、今の自分でいいんだ!」
周囲と比較し、自らが劣っていることの悩み‥
それは誰しもあろうかと思います。
しかし、現実には「気の持ちよう」でいかようにでも変わります。
勿論、「気の持ちよう」というのはあまりに軽薄な表現です。
「直観した」、あるいは「悟った」と言えばいいでしょうか。
言葉にするのは難しいのですが、ともかく私の命がガラリと変わったのです。
私は、潜在的に「子供がいない」ことを悩みとして持っていましたが、その悩みを解決しようと祈り、あるいは努力をしていた訳ではありません。
挑戦していた御書拝読で得た、副産物としての功徳でした。
その後、田舎の母と2人で話し合いました。
「お母ちゃん、俺、子供いないけど、いいよネ」と聞くと、母はにっこり微笑んで、答えてくれました。
「いいんだよ。子供が生まれても、悪い子もいる。いないというのも気楽でいい。そう思うことにしましょう」
以来、私も母も、この問題から解き放たれたのです。
私は、抜苦与楽の功徳を、確かに御書から頂きました。
○自分は自分、これでいい.
この功徳は、実に大きな功徳でした。
「どう見られている」とか、「どう思われている」とか、そのような相対的なことに惑わされていた自分が、信念とし、「自分は自分。その自分で精一杯生きればいい」と心から思えたのです。
私の人生にとって、この考え方の転換は、地獄を天国に変えるような出来事でした。もし、国府(こう)入道の御書がなければ‥今の自分の晴れやかな気持ちはないでしょう。
そのぐらい、大きな功徳だったのです。
環境が何一つ変わらないのに、心一つで問題が全て消滅する‥
そんな不思議な体験をしました。
これは境涯革命と言えるのではないでしょうか。
この一念の変化は、何年経過しても まったくぶれることがありません。
以来、「他を過剰に意識する自分」がなくなりました。
さらに、「他人の子供の成長がわが喜び、またその不幸がわが不幸」という感覚すら持てるようになったのです。
さらにもう一つ、私は御書拝読から大きな功徳を頂いています。
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