☆本音イコール広宣流布にできないか.
以下の文章は、断言した書き方になっています。
これは論調をはっきりさせるために、あえてそのようにしています。
大白8月号で八風抄が座談会御書に取り上げられた。
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観念論で捉えると、「ふーん、そうなんだ」と思う程度かもしれない。
しかし、現実に甘いも辛いも沢山経験すると、この八風に惑わされないことがいかに大事かということが分かってくる。
八風 とは、人が望む四順(しじゅん)、人が嫌がる四違(しい)のこと。
具体的には、うるおい・ほまれ・たたえ・たのしみの4つの良いことと、おとろえ・やぶれ・そしり・くるしみの4つの悪いこと、合せて8つの状態を意味する。
人は、利益があり、他から称賛され、楽しい日々を生きたいと思うもの。
しかし、そのことで人は傲慢なることもあるし、また、その生活が保障されている訳でもなく、いつその幸福が消えるのかと不安を抱えるものである。
不安を抱えるからこそ、人は心にもないことを言い、自分の本心を偽り、こびへつらうのである。このような嘘の人生に幸せはない。
一方、明らかに人生においての不幸がある。
それは、衰え・毀(やぶれ)・そしり・苦しみである。やぶれとは「壊れる」こと、そしりとは、非難され、馬鹿にされること。
老いも能力の低下も、年齢と共に仕方ないことである。
まして、何かを成そうとすると、必ず批判する人が出る。やらなければやらないで不幸だし、やったらやったで障害が待ち受けている。
こういうことに一喜一憂しているようでは不幸の極みである。
賢人は幸福の道を歩くことができる。愚者は不幸の道を歩くこととなる。
実は個々の一念と行動で、幸福にもできるし不幸にもできる。
ならば賢人でありたい。大聖人の弟子はかくあるべき。
さて、この世の全員が、衰え・毀(やぶれ)・そしり・苦しみを持っている。
そのことを体験し、そのことを味わうことは悪いことばかりではない。
不幸があって、その不幸を知ることで同苦できる人間になる。
同じ立場の人たちを、積極的に救済する原動力になる。苦労をして初めて、人は人らしくなれる。だから「衰え・毀・そしり・苦しみ」は必要です。
では、賢人になるにはどうすればいいのでしょうか?
それは、南無妙法蓮華経の唱題、さらに大聖人のご指南を基(もとい)とする教学である。その行学の二道(にどう)を根本に、善に生きること。
それを習慣化することである。
別して言えば、悩める宿業を信心で乗り越え、人間革命することである。
善 とは何か。利他である。他を幸福に導く“行動の人”である。
具体的には広宣流布(こうせんるふ)である。
私は過去から「等身大の広宣流布」という言い方をしている。
それは自分の人生を使った広宣流布という意味ある。
自分は池田先生ではない。先生に比べたら、何ともガッカリの人生だ。
他と自分を比べてはならない。自分には自分の使命があるのだから。
個々、生活場所、性別、立場も能力も違う。
それぞれの人生を使って広宣流布をするべきだ。
今の生活する場所で、今の地元の組織で、頂いている役職で、自らと自らの家族と共に、あるいは趣味の世界で、あらゆる自己の能力を駆使し、学会活動、友人との交流、仏法対話をすることだ。
困った人を助け、自信を失った友を励まし、勝利者を讃え、後継者を育てること。
そのことが、一切の八風を廃した信念の生き方になる。
その人生の歩み以外に幸せはない。
結論から言えば、本音を善にすることが肝心である。
言い方をかえれば、善なる信念を持つことが大事である。
実は本質が悪で善人を演じることは辛いことだし、逆に、善人が悪人の環境でこびへつらうことも辛いことである。
善人が善人と連帯して生きることは幸福の極みである。
では悪人は、悪という環境でのびのびと生きられるかというとそれはない。
悪には悲惨な末路が待っているだけである。悪に幸福はない。
すなわち、善なる本音を所有する以外に、人は幸せになることはできない。
だから、本音イコール善にする以外に道はないのである。
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