☆ナイチンゲールの「べき」
以下に、看護覚え書164ページの写真を添付します。
私はナイチンゲールを心から尊敬しています。
創価学会を愛するがごとく、私は彼女を愛しています。
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すでに亡くなられているナイチンゲールですが、彼女の声を生き生きと今に伝える本があります。それが、看護覚え書です。
看護覚え書は1860年にナイチンゲールによって書かれました。
ナイチンゲールが看護師の心得として書き残した名著です。
この本のご紹介は、いつかしたいと思っていますが、今回は第12章の「
おせっかいな励ましと忠告」と題される内容からいくつかのナイチンゲールの言葉を紹介し、所感を述べます。
以下の内容は、病人への励ましの問題を述べた文書です。
看護覚え書 164ページ以降の文章の一部を抜粋する。
おせっかいな励ましとは、まことに奇妙な標題であると思われるであろう。私の経験から声を大にして叫びたい。
励ましの習慣は病人に害を与える行いとしては最悪のものである。
病人が直面している危険をわざと軽く言い立てたり、回復の可能性を大げさに表現したりして病人を元気付けようとする。
そのような行為は、厳に慎んでいただきたい。
経験を積んだ医師の見解と食い違っているというのに、それで元気付けられたりするものであろうか。
医師の見解が誤っているということは確かにあろう。よくあると言ってもよい。しかし、圧倒的に誤りが多いのはどちらであろうか?
現実には、
善意はあるが厄介きわまるこの種の友人たちに励まされて、患者が少しでも元気付けられることなど皆無なのである。
雨のごとく降り注ぐ数々の忠告に彼らは耐えられない。
ほかの医師に診せよとか、転地せよ、この薬が良い、特効薬がある、などといった類の忠告である。こうした忠告の一貫性のなさについては、もはや言うべき言葉もない。
素人であれ、医師であれ、のこのこと病室まで出向いて、その実行の可能性はおろか、患者にとっての安全性についてすら知らないことを、患者に勧めて患者を悩ます友人や知人たち。
彼らの図々しさは驚嘆に値する。それはちょうど、患者の骨折を知りもしないで、運動を勧めるのと同じである。
あゝ、どうか、このような苦悩の人たちに、おせっかいな励ましはやめていただきたい。あなた方が彼らをいかに痛めつけ、いかに消耗させているか、あなた方は知らないのである。
歴史に名高いある人物が、こんなことを述べている。
この人物が、ある重要な決議事項を実施しようとしたとき、「まるで半年というもの、来る日も来る日も、周囲の皆から、どれもこれも似たような陳腐な言葉で、忠告や勧告を浴びせられ続けた」という。
何年にもわたって、来る日も来る日も手紙や口頭をもって、友人や知人たちから、この人物が受けた同様の拷問を受けて耐え続けている患者の方々がいる。
それにしても、友人知人たちが、ほんの一瞬でも頭を冷やして、患者はこの種の忠告を少なくとも五十回は聞かされたかもしれないし、もし、それが実行可能なことであれば、とっくの昔に実行されていたに違いないと考えをめぐらしさえすれば、こんな問題はたちまちのうちに解決されるであろうに。
つまり、
病人の現実の状態について何も尋ねもしないで、ともかくも自分の考えを押し付けたいということなのである。
私は看護師の方々に申し上げたい。あなた方が受け持つ患者の見舞客とは、まさに、こういう人たちである。
「
あなたは誰の意見にも耳を傾けようとしないで、頑固に自分の流儀ばかりを通そうとしている」などとお説教を耳にしたときには、その患者は見舞客から被害をこうむっているのだと察知しなければならない。
ナイチンゲール は、以上の内容を書いたのちに次の文書を記している。
「
見舞客は、病人に悦びをもたらすように努め、また常にそのような話題の提供を忘れてはならない。
病人は楽しい消息(たより)を聞くことにたいへんな悦びを感じるものである。たとえば、幸福が実りつつある恋愛や求婚の話題などである。
その話題を、結婚式の当日になってはじめて耳に入れるようなことをすると、ただでさえ乏しい病人の楽しみは半分奪われてしまうことになる。
病人はまた、何か具体的な善が行われたとか、何か正しいことが現実に成功した話などにも、強い悦びを感じるものである。
どうか、五十回は聞かされてきたような訓告を垂れるのはやめて、ひとつでよいから、実際に善意が実った話をなどをしてほしい」
私の所感 を以下に申し述べたい。
私は、「怒りの正体」という分野のシリーズで、数々の「べき」が対立を生じさせていることを述べてきた。
それは、
せっかんのような行為をして、相手が改心すると考えることは浅はかであり、譬えるならイスラム国のごとき行為であるという考えに基づくものである。
イスラム国の記事は、→
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加えて、私自身が、私の意に反した内容で、あるいは私の好み、私の個人的な見解を記事にしたことについて、膨大な数の批判を受けてきたことも述べた。
その出来事の多くは、自称学会員によって発生し、また、おそらく多くは間違いなく学会員の行為である。
批判を受けた記事は、→
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勿論、私もおせっかいをしたことはある。それは私の未熟からである。この点は申し合訳なく思っている。私の言論、私の対応により、悲しい思いをされた方々には深く陳謝したい。
さて、私はこの7年間、来る日も来る日も批判され続けた。その批判の数だけを見れば、日顕宗のごとき存在ということになる。
それが、正当な批判であったのか、過度な批判であったのか‥
ともかく私が日顕宗以上に批判されてきた事実があったことは読者の皆様にはご承知おきいただきたい。
そして、これからの私が、批判者たちの言う通りの悪人かどうかも見守っていただきたいと思っています。
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