☆学会歌「友よ強く」YouTubeを以下に添付します
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Q2. 信心は内道で全ては自分に原因がある、との教え。周りが理不尽に思えても全ては自分の生命(宿業)に原因がある。けれど、自分自身を責めすぎてしんどくなることは無かったですか?
A2. 27歳の時の100万遍はただ悲しくて唱えました。
「どうして家を出るの?」「どうしてそんなことをするの?」
信頼で結ばれていたイヌやネコが、ある日、その家族に捨てられたような、驚くべき出来事でした。
そのイヌ・ネコはその現実を納得できるでしょうか。
納得できないですよね。でも、捨てられたのです。
見知らぬ土地の星空を見上げ、悲痛な声で泣き叫ぶのです。
私は親から与えられた御本尊に必死で祈りました。
それは捨てられたイヌ・ネコが叫ぶような声の唱題でした。
この辛く厳しい百万遍では自分を責めた祈りではありません。
只、自らの宿業を懺悔した祈りでした。
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40歳になって3年の間に唱えた300万遍のうち、最初の100万遍、200万遍は懺悔の祈りではありません。怒りと、憎悪と、悔しさ、さらに絶対に負けない、負けたくないという闘争の祈りでした。
窓際族の祈りは懺悔の祈りではありません。
社会正義に反する会社との闘争の祈りだったからです。
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長期戦になるにつれて私の覚悟は固まりました。
「クビになったら、我が宿業も切れる」と考えていました。
その時は、正常な会社に就職して憂いなく仕事ができると思いました。
ただ、過去世に同様なことをしたであろう自分の宿業は感じていました。
200万遍を終えても、それでも解決されませんでした。
けれど、300万遍目に入ったときは、感謝の祈りになっていました。
解決されていなくても、私は歓喜の生活になっていたのです。
このようなプロセスでしたから、あなた様が言われる「自分自身を責めすぎてしんどくなる」ということはありませんでした。
でも「自分の宿業」は「憎かった」ですよ。
「なんという重い宿業なんだろう!」と冷静な自分が菊川広幸という人間を見ているのです。そして、その宿業に対峙しつつ「絶対に負けられない!」との思いで祈ったのです。
祈って、祈って、やがて命が強く、雄々しくなりました。
そして「何がどうなろうと、全部、御本尊にお任せする!」という気持ちになったのです。その結果、絶対に不幸にならないという希望を得ました。なぜその希望は生まれたのでしょうか。
それは小説・人間革命に描かれている幾多の体験談でした。
そして日蓮大聖人の御書の御文でした。
その言葉を頼りに、唱題を続けました。
私は学会を、池田先生を、日蓮大聖人を信じたのです。
祈り抜いて迷いも不安も無くなっていました。
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