☆個々人の心の中にある.
池田先生の使命について前回記事にした。
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池田先生の使命は途方もなく大きく重い。
師匠の使命に比べたとき、自分とは何と小さな人間だろう・・
そう思う人は多いだろう。
かくいう私は、自分の無能と惰性に落ち込むこと数知れず。
そのうち、「自分は先生のようになることはできない。だから師弟不二の自分になれるはずがない」とずっと師弟不二という言葉が使えなかった。
新聞紙上で、体験者が「師弟不二」という言葉を使っているのをみて、「先生と不二なの?」「そんなはずない」と不遜に思っていた。
到底、及ぶはずのない偉人たる先生に、ボンクラの私や少々の立場の人が不二に値するはずはないと頑なに信じていた。
しかし、そうではない。誰人にも師弟不二の瞬間はある。
そのことは後日、語ることにする。
そもそも使命はどこにあるのだろうか。
生活を超えた位置にあるのだろうか?
朝、歯を磨く。髭をそり、髪の毛を整える。
アイロンの当たった服を着る。腕時計をする。
さて、何のために歯を磨き、身支度を整えるのだろうか。
それは仕事をするためだったり、人に会うためだったり、あるいは気合を入れるためだったりする。気合を入れるのは、やはり何かをするためだ。
使命には大、中、小とある。夢に大、中、小とあるように。
仕事を一生懸命している人は大いなる使命感を持っていることが多い。
仕事をすることも子育ても使命には違いない。
先日、赤いランドセルを背負った女の子をお母さんが見送っていた。
お母さんはジェスチャーで、衣服の乱れを直すように伝えた。
女の子は服装を正し、テクテク歩いて行く。
お母さんはずっと女の子を見ていた。
女の子は20mは歩いたろう。その時、女の子は振り返った。
お母さんはまだ見送っていた。女の子は再び前を向いて歩き始めたが、お母さんはいつまでも見送っている。私はスゴイ母親だと感心した。
女の子は母が見守ってくれていることを忘れないだろう。
この母の愛は子に絶対に伝わるし、子はその愛情という太陽に光合成しながら愛情ある大人になるだろう。
母としての使命も、この母のごとき場合は大きい。
使命はこのように、身近にあるともいえる。
母の使命は、母にならなければ生じない。
しかし、母が専業主婦ならば、生活費を稼ぐ仕事は母親の使命ではない。
夫は子供を見送らないが、会社に出て仕事をして稼ぐ。
その稼ぎで、家族の衣食住が担保される。
夫には夫の使命があり、妻には妻の使命がある。
一家和楽は創価学会の「永遠の5指針」の1番目に記されている。
http://sokafree.exblog.jp/23921381/
よって、これらのことは間違いなく使命の一種だろう。
その使命は心の中の愛情が根源となっているのだろう。
でも、池田先生の人生とは全然大きさが違うように見える。
池田先生とて仕事をし、子育てを果たされている。
その上で途方もない使命を果たされている。
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