☆愚人ならば相手にしない.
ぱぱんださんからのご質問にお答えいたします。
Q1.
そのように生きられたらと思います。
でもどうしたらそう生きられるのか。
相手を気にするなということでしょうか?
Q2.
自分の研究の大切なところを捨て、周りに合わせろということでしょうか?
Q3.
私には実証を示し使命を果たすことは無理なのでしょうか。
A1.
相手がどの程度の人間かによると思います。
もし仮に、相手が池田先生のように偉大な人なら気にすればよい。あるいは、教育の対象者である生徒は気にしなければならないでしょう。
けれど、相手が大したことのない人で、あなた様のことを嫉妬や無慈悲にしか感じられない程度の人であるなら、気にするに値しない人でしょう。
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(237)で、まともに相手をしない、という方法もあるのではないでしょうか。
(私が窓際族の時はそのようにしました)
A2.
周囲に合わせることも大事、あなた様がこだわる研究(方法)も大事でしょう。ただ、「時」ということが判断基準になるでしょう。
冬に種を撒いても農作物は育ちません。
組織がそれを拒絶しているなら「時を待つ」ということも必要でしょう。
ただし、組織があなた様の研究を批判できても、その研究を阻止できる権限がなく、「それはあまり効果がないのでは?」という意見程度の批判なら、なんらご自身の方法を改める必要はない訳です。
私がよくわからないのは、批判される中身です。
例えば、組織の責任者が「その方法はやめなさい」と言われるような批判ならしたがわなければならないでしょう。
けれど、その研究が、あなた様の業務の範囲で、それを組織長が禁止することができない内容なら継続すればよい。
ぱぱんださんはなぜ悩むのでしょうか。
ぱぱんださんの研究が有益で、生徒のためになるなら喜々として前進すればよいと思うのです。
私はありますよ。周囲に馬鹿にされても、「これは絶対に必要だ」と思えば、批判など気にしないのです。
けれど、だから孤立化するということもないです。
「菊川は頑固だけど、良いところもある」
そんなふうに見られていると思うからです。
100点なんてありません。皆、欠点があります。
研究の1つ2つだけで、すべての評価がくだされるはずもない。
方法論の違いが、孤立化にまで発展する、というのはどう考えても極端で、もし、ぱぱんださんが孤立化されているのであれば、それは研究や方法論の問題ではなく、あなた様の振る舞いや、反応が気に食わないということではないのでしょうか。
たとえば笑顔や優しさや寛容性、あるいはかわいらしさの欠如です。
他の理由ということはないのでしょうか?
旅行に行きお土産を買って配るとか、残業続きの時、栄養ドリンクを渡すとか、大変ですよねと笑顔で声をかけるとか、上席に感謝の言葉を言うとか、そういう社内営業的な行動は、好かれるという意味ではとても大きな効果を発揮します。
単に、会議で勝ってみたところで、好かれることはないでしょう。
職場に1人、また1人と味方を増やす。
好かれるということで、今のあなた様の研究が認められるというようなことがあるのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。
A3.
実証、使命とおっしゃいますが、研究の是非が認められるか、認められないかが実証、使命なのでしょうか。
私自身、過去に研究職であった時代に、いくつもの項目の研究開発を手がけました。
論文もいくつも書きましたし、その中のいくつかはそこそこの評価を得ましたが、大研究者のような偉大な研究でもないし、多少の人生の飾りになる程度のものです。
それでも、そういう論文などは、ないよりはあった方がいいことは確かで、名刺代わり、話のネタにはなったものです。
けれど、それは営業マンが大きな売り上げが果たせたとか、大工が良い家を建てたというような程度で、ことさらスゴイことでもない。
私たちが実証と呼び、使命というのは、本来、広宣流布にしかないと思うのです。
広宣流布のための実証を真の実証と言うのではありませんか?
そう考えるなら、研究が評価されることも確かに実証ではありますが、職場の人たちに好かれ、尊敬されることが本当の実証でしょう。
そのためにも、「ぱぱんださんは立派な人だ」とならなければいけないし、その「立派」とは何かを正しく認識する必要があると思います。
「立派」とは競争に勝つことでしょうか。
私はそうは思いません。
勝てばいいというものではない。
以前、私はこういう話を聞いたことがあります。
ある人は、会社の生存競争に勝ち、上席になって引退した。
しかし、引退したら友人もいない、孤立した老後になった。
その上席者は言うのです。
「僕は失敗した。あんな仕事をするべきじゃなかった」
逆に上席になれず、上席のように競争しなかった人たちには友人が多く、確かに出世はしなかったけれど、仲良く楽しい人生になっています。
一方は勝って孤立化し、一方は負けて友人を沢山持った。
少なくとも、ぱぱんださんはアスリートではないし、研究の勝敗がそこまで大きな意味を持つものだろうか?と私は思ってしまうのです。
私も若かりし頃は、立派な論文を書くことは最高の誉だと思っていたし、確かにそれは誉ではありますけれど、でもそれは才能を発揮するという点で意味もありますが、でも本当の誉、本当の実証、本当の使命かというと、私はそうは思えないのです。
あくまで、「他の人々の幸福のため」の実証であり使命でなければならない。
池田先生は「英知を磨くは何のため、君よ、それを忘るるな」と述べられました。それは世界中の人たちを幸せにする目的のことでしょう。
そのためのあなた様の人生であり、私の人生でしょう。
使命は研究だけにあるのではありません。
同じ教育現場の1人1人にも悩みがあるでしょう。
そういう悩みの相談に対応してもいいのではないでしょうか。
私の人生観から記しています。不快な表現もあるかも知れません.
状況が見えないままに発言していますので的外れもあるかと思います。
その点はご了承ください。
次の記事は、→
ここをクリック!
<別館>ブログトップへ