◇小説「新・人間革命」の池田先生のご指導から。
功徳を受ける信心を、誰もがしたいと思っている。
では、どのような信心をすれば、功徳を得られるのだろうか?
現在、連載中の新・人間革命「奮迅」の章から、池田先生のご指導を以下に転記する。
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功徳を受ける信心について話をしておきます。
一言すれば、真面目な信心の人には、必ず功徳があります。
一方、外面は、一生懸命に信心に励んでいるように見せながら、実際は怠惰で、真剣に仏道修行に励もうとしない人には功徳はありません。他人の目はごまかせたとしても、仏法の因果の理法は、決してごまかすことはできないからです。
また、恐るべきことは、すぐに人を批判したり、ねたんだりする習性です。
それは、自分がこつこつと積み上げてきた福運を消すだけでなく、心を暗くし、生命を重くします。さらには、広宣流布の団結を破壊することになっていく。
つまり、自分で自分を、不幸の淵へと追い込んでいってしまう。
反対に、人々に対して、善意と賞賛と応援の姿勢で臨み、仏道修行に励んでいくならば、感激があり、感謝があり、人生のすべてを楽しいものと実感していくことができる。
実は、そこに人間革命の姿があり、幸福の実像もあるんです。
人生の勝負は、1年や2年では決まらないものです。一生です。
したがって、決して背伸びをすることもないし、見栄を張る必要もありません。
平凡でいいんです。
どこまでも自分らしく、“折伏精神”をたぎらせ、地道に、淡々と、わが使命を果たし、所願満足の境涯を築き上げていくことです。
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功徳と罰の分かれ道をご教示くださっていました。
平凡でも、真面目な信心を果たせば功徳を得られる‥。
恐るべきは、人を批判し、ねたんだり、恨む習性にある‥。
せっかく幸せになるために信心をしているのに、逆に不幸になるような言動、行動をしている人がいるものです。
日蓮大聖人は、極楽寺良観一派の陰謀で死罪、流罪の難を被りました。
当然、お怒りであられたに違いないと思っていたのですが、開目抄には、「人をあだ(怨)むことなかれ・眼あらば経文にわが身をあわせよ」(228頁)と記されていました。私は、この御文を拝し、大聖人の心に「あだ(怨)む心はなかった」ということ知り、驚いたことがあります。
この崇高な日蓮大聖人の精神に触れ、その時、私は、「人を恨んだり、同志の悪口を言うことを一切やめよう!」と決意することができました。
せっかくの福運を消し、さらには不幸になる‥。
そんな信心だけは、私はしたくありません。
ちなみに私は平凡な信心ですが、沢山、功徳を頂いています。
その功徳の記事は、→
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