☆劣ることの恐怖に悩む。
この写真は、先日の聖教新聞(2月8日)の記事です。
シリーズのテーマである「境涯の変革」が書かれていました。
以下に、その部分を抜粋してみましょう。
「境涯」を変えなければいけない。
人間を取り巻くものは変わったのに、人間だけが変わっていない。
法華経の意義は、そうした未熟な人類を賢き人類へと変革させていくことにある。「仏界」という、一人一人の内にある、最高の境涯を開発することにある。
(以上、池田名誉会長のご指導です)
○残酷な世界.
私はこの世がいかなるものかを知らず、生まれたところがどこかも知らず、選んだか選ばれたかも知らず、私として生まれました。
最初は自分と他との区別もつかず、ありのままに見て、聞いていました。
与えられるものを疑うこともなく、食べ、飲み、生きたのです。
そのありのままの自分が、多様な人々の中で、知らず知らずに競争に巻き込まれるのでした。
競争なんかしたくなくても、でも、やっぱり競争せざるを得ないのです。
義務教育には義務教育の競争がありました。高校、大学、社会人と果てしなく競争が続きました。
優位に立っても、その継続に悩み、劣れば劣ったで灰色の人生を歩むのです。思えば残酷な世界です。勝者は富と栄光を得ます。
しかし、敗者は日陰者として生きるのです。
○愚鈍な子.
病弱な私は学校に行けず、大事な幼少期の教育が遅れました。
小学校低学年では決定的な勉強不足で、体力さえも不足していたのです。
同級生が活発な運動をし、意気揚々と学校で学んでいるとき、私は一人、フトンの上で過ごしたのです。
その子供が弱いながらも学校に行ける健康を得ると、すぐに競争にさらされました。優位に立てるという体験がなく、いつも負けてばかり‥
その子供が仰ぎ見る未来の空は、暗雲垂れ込めた灰色の世界でした。
兄弟もいない一人っ子にとって、活発に動く同級生に物怖じしながら、何とかついていくのです。
高度経済成長期の日本の片田舎‥
愚鈍な子供はいつも満たされず、心が晴れることはありませんでした。
○勝他の命.
私は平均点以下の自分を怖れました。
優秀にはなれない。せめて普通でありたい。けれど、普通の自分を維持することは努力が必要だ。努力をしなければならないことは分かっているが、その努力をすることができない‥
勉強も、運動も、人並みまでできると、そこに安住して遊ぶのです。
人よりも勝ろうという強い気持ちになれないのです。
では、これは修羅ではないのか?
これも修羅だと思います。中くらいになろうという修羅です。
望みは平凡でも、平凡に至らない自分は不幸と思っているのです。
心の中に勝他の念が巌(いわお)のように存在するのです。
もし、私が知力も体力も人並み以上にあったとするなら、今度は上位クラスで同じように悩んだことでしょう。
上を見ればきりがなく、下をみればきりがないのに‥
食物連鎖の頂点が幸せだと、私は強く信じていました。
この不幸を脱却するには「境涯革命」しかありません。
けれど、境涯革命を果たすには、私はいくつもの悲惨を乗り越えなければなりませんでした。
次の記事は、→
ここをクリック!
<別館>ブログトップへ
<創価の森通信>へ
<本館>ブログトップへ