☆難を受けて幸せになる.勝ち鬨35に重要な指導が掲載されました。
大分県幹部会の席上、池田先生は折伏に励んできた学会員への誹謗の人々について、特に「誹謗し抜いた人」についての罪を以下の御書の言葉から次のように指導されていました。
「
若しは 在家にてもあれ 出家にてもあれ、法華経を持ち(たもち)説く者を 一言にても謗る事あらば、其の罪多き事、釈迦仏を 一劫の間 直ちに謗り奉る罪には 優れたり」(1382)
「誹謗し抜いた者がどうなるのか、ここに厳として示されています。
仏子を謗れば、仏法の因果の理法によって厳しく裁かれていくでしょう。
この正信会の事件は、広宣流布を妨げる魔の働きであり、
また、一つの難と言えます。
大事なのは、難があるからこそ信心が深まるということです。
功徳だけの安楽な信心であれば、宿命転換も一生成仏もできません。
仏道修行を重ね、宿命を転換し、崩れざる幸福境涯を開くために、
難は必要不可欠なんです。難がるのは正義の証です。
仏法は勝負です。強盛な信心を貫き、聡明に生活し、真剣に仕事に励み、
人格を磨き、幸せの人生を歩み抜いてください」
この「誹謗し抜いた者」とは誰のことでしょうか。
ここでは正信会の僧侶です。これは日顕宗の一部です。
当時は毛色が違いますが日顕宗の先駆けであり、日顕宗そのものです。
さて、大聖人の御書の「一言にても」は重く受け止めるべきでしょう。
御書は一文一句、真実だからです。
予言書と言ってもいいと思うのです。
原因と結果。仏法の方程式は絶対です。
過日、大聖人と良観との祈雨対策について記事を書きました。
大聖人を無き者にしようとした良観とその一派の悲惨な結末は、大聖人の真実を完璧に証明したものです。
以下に、その祈雨対決の記事URLを示す。
http://sokafree.exblog.jp/28018053/日顕一派の人生は、良観一派の人生に符号します。
創価の人生は、牧口、戸田、池田先生の勝利の人生と符合します。
このことは、時とともに、さらに鮮明になることでしょう。
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