☆極楽寺良観と符合.御書1412ページに、阿部日顕を彷彿とさせる御文がありました。
以下にその御文を引用し、所感を述べます。
いぬる ぶんおうの ころ
こ さいみょうじにゅうどうどのに もうしあげぬ
されども もちい たもうこと なかり しかば
ねんぶつしゃ とう このよしを ききて
じょうげの しょにんを かたらい うちころさんと せしほどに
かなわざり しかば
ながとき むさしのもりどのは ごくらくじどのの みこなりし ゆえに
おやの みこころを しりて りふじんに いずのくにへ
ながし たまいぬ
されば ごくらくじどのと ながときと かの いちもん
みな ほろぶるをおのおの ごらん あるべし
そのご いかほども なくして めしかえされて のち
また きょうもんの ごとく いよいよ もうしつる
また いぬる ぶんえい 8ねん 12にちに
さどの くにへ ながさる
にちれん ごかんきの とき もうせいしが ごとく
どうしうち はじまりぬ
それを おそるるかの ゆえに また めしかえされて そうろう
しかれども もちゆる こと なければ ばんみんも
いよいよ あくしん さかん なり
たとい いのちを ごとして もうしたりしとも
こくしゅ もちいずば くに やぶんれん こと うたがいなし.
去ぬる 文応の 比 故 最明寺入道殿に 申し上げぬ
されども 用い 給う事 なかり しかば
念仏者 等 此の 由を 聞きて
上下の 諸人を かたらひ 打ち 殺さんと せし程に
かなはざり しかば
長時 武蔵の守殿は 極楽寺殿の 御子 なりし 故に
親の 御心を 知りて 理不尽に 伊豆の国へ 流し 給いぬ
されば 極楽寺殿と 長時と 彼の 一門 皆 ほろぶるを
各 御覧 あるべし
其の後 何程も なくして 召し返されて 後
又 経文の 如く 弥よ 申しつよる
又 去ぬる 文永 八年 九月 十二日に 佐渡の国へ 流さる
日蓮 御勘気の 時 申せしが 如く どしうち はじまりぬ
それを 恐るるかの 故に 又 召し 返されて 候
しかれども 用ゆる事 なければ 万民も 弥弥 悪心 盛んなり
縦ひ 命を 期として 申したりとも 国主 用いずば
国 やぶれん 事 疑なし.
かすがだいみょうじんの おんたくせんに いわく
はんに どうの ほのおをば しょくすとも
こころ けがれたる ひとの ものを うけじ
ざに どうの ほのおには ざすとも
こころ よごれたる ひとの いえには いたらじ.
春日大明神の 御託宣に 云く
飯に 銅の 炎をば 食すとも
心 穢れたる 人の 物を うけじ
座に 銅の 焰には 坐すとも
心 汚れたる 人の 家には いたらじ.
かの 250かいの りょうかんぼうも
にちれんに あいぬれば はらをたて
まなこを いからす これ ただごとには あらじ
ちしゃの みに まの いり かわれば なり.
彼の 二百五十戒の 良観房も
日蓮に 会いぬれば 腹をたて
眼を いからす 是 ただごとには あらず
智者の 身に 魔の 入り かはれば なり.
この御文を日顕と池田先生の関係として見れば一切が符号します。
大聖人は二度の流罪になりましたが、池田先生は第一次宗門問題で会長勇退を強いられ、第二次宗門問題で破門されました。
幕府は良観を中心とした他宗を用い、大聖人を用いなかった。
大聖人は他宗と同様に寺を寄進するから護国の祈りを捧げてほしいと言われましたが断り、身延に入山されました。
次に、大聖人は良観との関係を記されたのです。
大聖人と巡り会い、腹を立て怒り狂う良観の姿です。
「彼の 二百五十戒の 良観房も 日蓮に 会いぬれば 腹をたて
眼を いからす 是 ただごとには あらず」
250戒を持つなら「腹を立て、眼を怒らす」ことはないのです。
すなわち、良観は250戒など持っていないのです。
この極楽寺良観は、完璧に阿部日顕に符合します。
そして二度にわたり辞任、破門せられた池田先生は大聖人に符号する。
世界広宣流布の未曾有の前進をされた池田先生は、悪しき日顕一派に常に狙われ、大弾圧を受け、さらには師弟共に宗門から破門された。
そして熱原法難など、弟子の弾圧にも符号します。
小説・新人間革命に日顕の心情は語られていませんし、また今後、語られることはないかも知れませんが、間違いなく「日蓮に 会いぬれば 腹をたて 眼を いからす 是 ただごとには あらず」なのです。
「ただごとにあらず」は、まさにC作戦です。
今、新人間革命は宗門問題の本質を語りつつあります。
私個人としては「C作戦」について記していただきたいと願っています。
阿部日顕の存在をしっかりと書いてほしいからです。
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