☆阿部日顕の精神構造.
(小説・新人間革命30巻、勝ち鬨74・78の内容を抜粋します)山本伸一は、心情を率直に語った。
「悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会をかく乱し、広宣流布を破壊するならば、それはもはや仏敵です。
徹底して戦うしかない。そこに躊躇があってはなりません。
人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。
自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃する・・
それが私の30数年間にわたる信仰生活の実感です。
すべては因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。
私どもは広宣流布のため、世界の平和と人々の幸福のために献身してきましたが、悪僧やたぶらかされた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。
大聖人は釈迦仏を悪人がどう見ていたかを述べられている。
『或いは悪人はすみ(炭)とみる・あるいは悪人ははい(はい)とみる・或いは悪人はかたき(敵)とみる』(御書1303)
歪んだ眼には、すべては歪んで映る。
嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです」
(3月7日、聖教新聞より)
悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常とう手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会の悪口、中傷を繰り返してきた。
挙句の果ては「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。
冷酷無残な、卑劣な仕打ちであった。
(3月12日、聖教新聞より)
この記述は、1982年(昭和57年)1月時点(第一次宗門問題の時)の池田先生の「率直な心情」です。
これは、第二次宗門問題の日顕に対する心情とイコールでしょう。
「嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない」とは、「嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった日顕の心には、池田先生の真実と偉大を映し出すことはできない」と言い換えることができる。日顕こそ、「嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった人」だから。
前回の記事も同様、日顕宗の本質がはっきりと伝わる内容です。
https://sokamori2.exblog.jp/28186620/池田先生はさらに「悪に憎まれることは正義の証」と記されました。
日顕が正義の池田先生を映し出し、宗門が正義の創価学会を映し出した。そういう意味で日顕宗にも存在意義があったと言えるでしょう。
以上、勝ち鬨の章で日顕宗の本質が描かれました。
次はいよいよ、小説・新人間革命の最終章「誓願」になります。
クライマックスはどのように描かれるでしょうか。
期待して、待ちたいと思います。
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