☆今さら何が言いたいの?いつもカイダンと登山しか言えない日顕宗信徒について
半月余り語ってきましたが、さらに日顕宗の
信徒、それは「仏法は理屈だよ」と
発言した信徒ですが、このほど
おかしな戸田城聖批判を語っていました。
そのトークを以下に紹介します。
>創価の二代会長・戸田城聖の獄中の悟達は、
獄中で無量義経を読んで悟ったことらしい。
さらに出獄後も(悟りが)あったとか。
そもそも2度も3度も悟達してたら
最初の悟達の時は悟達してなかったと
いうことになるだろうが!
教学的に言えば無量義経で悟達なんてできるわけがない。
無量義経は法華経の開経に過ぎず・・
(以上は抜き書き・趣意)
日顕宗は理屈をこねる宗教であり、功徳のない
宗教であり、そのため不幸のストレスが
日々に高まって、学会批判を
するしか生きられないのでしょう。
上記のトーク、ものすごくオカシイのは、
「今さら何を言っているの?」ということです。
そもそも戸田城聖の悟りは、戸田自身が書いた
小説・人間革命に述べられていて、
かつ、戸田城聖自身の公演で「悟り」について
何度も語られてきた内容です。
当時から一切、宗門はそのことを批判していないし、
おそらく今も批判していないことを
その信徒は戸田城聖の万分の一もない
虚弱な信心なのに批判している・・
あまりに幼稚で、あまりに滑稽です。
しかも「悟りは一度あれば、二度も三度もない」という
笑えるトークは、当人がそういう体験を
していないであろうことの証左です。
私も悟りました。その体験を以下に示しましょう。
→sokanomori.exblog.jp/15414796/戸田城聖は無量義経に縁して悟ったのであり、
無量義侠の内容から悟ったのではない。
私も同じです。私は「一生成仏」という
4文字をじっと見ていて悟ったのです。
加えて、その後に国府入道夫妻への二編の御書で
別の悟りを得ましたし、悟りが一回で
終りなんて超おかしいのです。
私だって「悟り」は何度もありますからね。
どうでしょう、数年に一度ぐらい
「そうか!」って悟るものです。
悟りとは「物事の道理を明らかに知る」ことで、
「迷いを離れて真理を得ること」です。
仏法上は「成仏の境地を得る」ことですが、
一度悟ったから、その後が万事安住なら、
水の信心はいらないし、まして人生に
度重なる苦難や不幸もへっちゃらでしょう。
そうではない。年々歳々形を変えて苦難はあります。
都度決意し、都度祈り行動すれば、
新しい発見や新しい悟りがあるのです。
そもそも過去、宗門が批判していないということは
すなわち肯定しているのであり、
正宗が認めているとを「今さら」単なる
信徒の一人が「それはウソである」と言うのは
あまりにも馬鹿げたことであります。
学会批判をしたいなら、学会が日蓮正宗の時代の
宗門の言論を例題にして行わないと
全部「今さら」なことばかりです。
学会批判の前に日蓮正宗の歴史、言論をしっかり
勉強すべきではないでしょうか?
私は一時、研究員としてして仕事をしていて、
論文もそこそこ書いてきましたが、
過去の間違いを指摘するというのは
事実を丹念に収集し、しかも
実験証明しなければならないのです。
何より相手が「そうだったのか」と
納得させられない論文は
論文のレベルではありません。
ともかくレベルが低く過ぎますよ。
私が直近、申し上げている通りの展開です。
功徳が書けない。中身はからっぽ。
で、カイダンしか語れない・・
ともかくそんなことばかり言っているから
学会員はそっぽを向くのです。
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